イエスは、「わたしを信じる者は決して死なない」と言われたとき、どのような意味を込めていたのでしょうか。
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この聖書の箇所は、キリストが再臨されない限り私たち全員が経験することになる「最初の」死について語っているわけではありません。「人は一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定められているからです」(ヘブル人への手紙 9:27)。アダムが罪を犯したため、その死の宣告はこの地球に生まれたすべての人へと受け継がれているのです。 「それゆえ、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に及んだのは、すべての人が罪を犯したからである」(ローマ人への手紙5:12)。
ヨハネによる福音書11章におけるイエスの言葉の文脈は、ラザロの死の物語です。マルタがキリストに近づくと、キリストは彼女に「あなたの兄弟はよみがえる」と言われました(23節)。彼女は将来の復活を信じていることを確認しました。 25節で、イエスはこう言われます。「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」そしてキリストは続けて、「生きて、わたしを信じる者は、決して死ぬことがない」と述べられました。キリストは明らかに、最後の審判における失われた者たちの永遠の死について語っておられたのです。
イエスの言葉を、たとえ最初の死を迎えても、実際には死なず、そのまま天国か地獄へ行くという意味だと解釈する人々もいる。しかし、この節が言っているのはそういうことではない。 イエスは、「たとえ死んでも、生きる」(強調は筆者)と説明されました。復活は、人が死んだ瞬間に起こるものではありません。マルタも、「私は、最後の日の復活のときに、彼がよみがえることを知っています」(24節、強調は筆者)と言って、この点を指摘しています。
キリストが私たちを救ってくださる対象は、第二の死なのです。「最初の復活にあずかる者は、幸いであり、聖なる者です。第二の死は、彼らには権威を持ちません。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストと共に千年間支配するでしょう」(黙示録20:6)。 死ぬ者はすべて復活する(使徒行伝24:15)。神に従う者として、私たちが経験することのないのは、この「最後の死」である。「そこで、死と黄泉とが火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録20:14)。神は死を滅ぼされるが、私たちは神の御手の中にあって安全である。