聖書には、律法には欠点があると書いてあるのでは?
Read Time: 0 min

休暇中に近所の少年を呼んで、庭の芝生を全部刈ってもらうとしましょう。少年は承諾し、あなたは「帰ってきたら支払うよ」と言います。後日、車で自宅に戻ると、前庭の芝生はきれいに刈られているのが目に入ります。 しかし、裏庭に足を踏み入れると、そこはまるで草が伸び放題の牧草地のような有様です!少年が報酬を受け取りにやって来た時、あなたは裏庭を指さして指摘します。彼の罪悪感に満ちた表情から、彼が事情を承知していたことが分かりますが、あなたは約束した金額の半分を支払って彼を帰らせました。
さて、1年後にあなたがまた休暇に出かけると想像してください。あなたは同じ少年に電話して芝刈りを依頼します。彼がやってくると、あなたは再び取り決めをし、芝生全体を刈るよう強調します。彼は承諾し、今回は仕事を完璧にこなしました。 この二つのシナリオを見て、最初の契約に欠陥があったと結論づけるでしょうか?いいえ。少年が約束を果たさなかったのです。問題はあなたの契約ではなく、少年の方にあったのです。
神がイスラエルと結ばれた最初の契約は、良いものでした。たとえ第二の契約に関して「新しい」という言葉が使われていても、それは最初の契約に問題があったという意味ではありません。問題は神の契約や律法にあるのではなく、民にあるのです。彼らはやがて偶像に目を向け、主を見捨ててしまいました。
ヘブル人への手紙は、問題があったのは民であり、契約ではないと述べています。パウロは次のように書いてこれを説明しています。「律法が、肉のために弱くして成し得なかったことを、神は、罪のために、罪ある肉の姿をとって御子を遣わすことによって成し遂げられました。 神は、罪ある肉の姿をとって御子を遣わし、罪のために、肉において罪を裁かれた。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちにおいて、律法の義の要求が満たされるためである」(ローマ人への手紙8:3, 4)。律法は完全です。問題は、御霊に従って歩む代わりに、肉に従って歩むことを選ぶ欠陥のある人々にあるのです。